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【~イントロダクション~】
人生とは決断の連続である。
決断するだけならばまだしも、時としてそれには時間制限が伴う。
昨年の十二月二十九日早朝、コミックマーケットC91当日にそれは起こった。開かれた満員電車のドア――地獄と形容するに相応しい車内へ向けて、私は飛び込むという選択が出来なかった。咄嗟に怯んだ私は車内から弾き出されたのだ。鈍重に、身を震わせるように動き始めた列車は、まるで私を嘲笑っているかのようであった。
それを見送りながら、私は静かに決意した。
次こそは目にモノを見せてくれると。恥に塗れ汚泥に身を浸しながらでも、私は必ずここへ戻って来て見せると。そしてあの満員電車に華麗に乗り込み、予定時間通りに会場に到着してみせると――
私の名前は『ぶたばら300g』。コミケ早朝の満員電車へのリベンジを誓う、しがないゲームグラフィッカーの一人である。
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【~夏コミ前の一幕~】
私はあの冬コミで全てを失った。
ネクストンで働き始めてから地道に築き上げてきた知的かつ冷静沈着な人物像、先輩諸兄を惹きつけて止まぬ愛くるしさ、後輩一同から絶え間なく注がれる敬愛の眼差し――それら全ては、あの日の満員電車に置き去りにされたまま今も所在知れずである。
一瞬の気の緩みであった。たったそれだけで丹念に作り上げた人物像は崩壊し、私に残されたのは”阿呆”の二文字のみだった。
何という無様な姿か。こんなモノが今の私か。長きに渡る社会人生活の果てに手に入れたのが”阿呆”という肩書のみだというのか。
その事実は目を背けるには余りにも大き過ぎたが、しかし些か見るに耐えない。
私は取り戻さねばならないのだ。あの日失った全ての物を……そして私の人事評価を。
○
「冬コミであの惨状だったのに、貴方が夏コミのスタッフメンバーに選ばれるなんて奇跡ですね。何にせよ、汚名返上のチャンスではありませんか」
ある昼日中、私にそう話しかけてきたのはスタッフきっての若手である”ほっとかき氷”であった。
イベント業務の責任者である”グレ彦”先輩からの信頼に厚く、新人ながらもコミケスタッフに毎回選ばれているホープである。
誠実そうな人柄や温和そうな雰囲気でいかにも人畜無害っぽく見えなくもない人物ではあるが、私は彼と確執があった。
忘れもしない。昨年の冬コミ当日の早朝、あの満員電車での出来事であった。
「何が汚名返上だ!! あの時、貴様が私を助けてくれていればこんな事にはならなかったではないか……!」
呻くような私の呪詛に対して、ほっとかき氷はどこ吹く風といった表情だった。
あの日の早朝、私とほっとかき氷は、同じ車両、同じドアに飛び込み、しかし明暗ははっきりと分かれる結果となった。
一人は電車に乗り込み、一人は弾き出された。乗り込めなかった方の間抜けは、誰あろう私である。
「いやぁ先輩、無茶をお言いになる。それに貴方が乗り込めなかったのは私のせいではありません。乗らないという選択をしたのは貴方自身ではありませんか」
「五月蝿い五月蝿い! お前のせいで私の出来る男イメージが台無しになってしまった!!」
「あら、何とも穏やかではありませんね。ルサンチマンを気取るのはやめて、そろそろ前向きに考えましょうや。冬がダメなら夏ですわ」
彼のもっともな進言に、私はぐうの音も出なかった。
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【~夏コミ本番~】
あの日以来、私は全てを投げ打って分析に分析を繰り返し、満員電車に対する万全の対策を何重にも講じてきた。
私は頭の中で乗車角度や立ち方を幾通りも検証し、五十五キロあった体重を五十キロまで絞り込み、足腰を極限まで鍛え上げる為にトレーニングジムに連日通いつめた。
人間は「自分は何の為に生まれて来たのか」などという無意義な問題にやたらと答えを求めてしまう奇っ怪な生き物であるが、その時の私は間違いなく満員電車に乗るために生まれてきたと断言出来る仕上がり具合であった。早朝の大阪市営地下鉄御堂筋線など物の数ではなく、その出で立ちはまさに現代社会に迷い込んだ天狗というに相違なかった。
かくして八月十一日――その日はコミックマーケットC92開催当日であった。
私はホテルのロビーで他のメンバーが到着するのを待ちながら、来し方半年間のアレコレを思い返し己を奮い立たせることに余念が無かった。余りにも余念が無さ過ぎたせいで財布もSuicaもホテルの部屋に忘れて来てしまっていたが、それもひとえに私の並々ならぬ入念さと生真面目さが裏目に出てしまった結果であろうと思われた。
いよいよ出発という時間になり、私は気合十分でホテルから飛び出していた。
コミックマーケットが始まる直前のこのワクワク感は、何度味わってもやはり無類の趣である。
読者諸賢は今年の夏コミの来場者数をご存知だろうか。
昨年の夏の五十三万人を更に下回り、五十万人という少々物足りない来場者数であった。
来場者数の減少は、当然の結果として早朝の”りんかい線”利用者の数にも影響を与えていた。
端的にいうと、電車内はガラガラであった。
私は自分の目を疑いながら怖々と電車に乗り込んでいた。吊革に掴まりながら、私は呆然と車内を見渡す。
迎え討つべき満員電車の姿はそこにはなく、私に残されたモノは不毛に鍛え抜かれた己の肉体のみであった。取り戻すはずの人事評価も、超えるはずだった過去の失敗も、持って来る筈だった財布とSuicaも、一切合切そこには存在しなかった。
私が半年の間に使ってきた膨大なエネルギーは一体どこに消えてしまったのか。エネルギー保存則に反してはいまいか。かような状況は現代物理学への冒涜ではないのか。一体、私の出来る男イメージはどこへ消えてしまったのか。どの駅に問い合わせれば落とし物として受理出来るのか。
そんな事を考えながら、私は一人心の中で泣いていた。その場に崩れ落ちて身も世もなく啜り泣くに吝かではない状況ではあったが、私は紳士らしく歯を食いしばって耐えた。私にはまだコミックマーケットという地獄の饗宴も真っ青のビッグイベントが待ち構えているのである。
私はバラバラに砕け散った意志力を床から拾い集めて、震える足取りで東京ビックサイトへと向かった。
目指すは「西ホール1321」ブース――これから三日間、我々の戦場となる場所であった。
今回はあかべぇそふとつぅ様との合同ブースとなっている為、二ブース設営で見た目にも非常に艶やかであった。
電飾に照らされた巨大な「真・恋姫†夢想-革命-」看板が異様な存在感を放っている。
弊社のBOSSもブースデザインの出来栄えにご満悦である。
コミックマーケット開催期間中には、本当に大勢のユーザー様にお越し頂き万感の思いであった。
特に初日の午前中に長時間ブース前に並んで頂いた皆様には最大限の感謝を伝えさせて頂きたい。
列整理を担当していた亮精類も嬉しさの余り感極まってダンボールを抱き潰していた。同じホモサピエンスだと感じさせない感情表現の手法ではあったものの、彼の喜びは私に十分過ぎるほど伝わっていた。
三日目には歌手の大島はるなさんを招いてのトークショーが開催され、これまた多くのユーザー様にお集まり頂いた。
まさに怒涛のような三日間を終え、我々は粛々とお祭り騒ぎの後始末を進めていた。
他社様のブースも着々と解体作業が進んでいる。何度見てもノスタルジックな感傷に包まれる、独特な味わいのある光景であった。
結局、この夏の私は”冬の失敗”を乗り越え、克服することが出来なかった。だが、私はそれを是とし納得するような男ではない。
いくら目を逸らそうとて、ありとあらゆる不毛な努力を積み重ね、半年間を棒に振ったという事実は今更否定出来る筈もなかった。
慰みに自分自身を優しく抱きしめてやったとしても、その現実は変わらないのだ。そもそも、うら若き乙女ならばまだしも、そろそろ三十路になんなんとする小汚い男など誰が抱きしめてやりたいものか。
私は断固として自分自身を擁護する事を拒絶した。
知的かつ愛嬌に溢れ後輩から敬われて止まない――そういった私の人物像は、今も尚、東京臨海高速鉄道の路線を彷徨い続けて行方知れずのままでいる。
だが、私がそれを取り戻す日は必ず訪れる。
我々、ネクストンのイベントスタッフが――そして私自身がコミックマーケットという祭典に挑み続ける限り、それはきっと遠からぬ未来の話となる事だろう。
――それが語られるのは、また別のお話である。